「おたくの息子さん、面接ドタキャンしないようにしてください」――日本人がベトナムで考えた「約束」と社会的責任

「Tranh cãi chuyện ứng viên hủy phỏng vấn phút chót」
(候補者の面接ドタキャンをめぐる議論)
数日前のVnExpressの記事。
「採用面接におけるドタキャン」の話しです。
当然、最近(2026年)に起きている事例に関する議論でしょう。
若い世代の仕事観・価値観、Webを通じて簡単に応募できるようになったり、求人情報・企業情報が益々世に溢れているなど、ドタキャン発生の理由は様々でしょう。
ただ、こういうことってずっと以前から頻繁に起こってたんですよね、ベトナム国内において。
筆者がベトナムに来た2010年代初頭。企業向けの採用支援において驚いたことが、候補者(応募者個人)が面接参加を無断で当日にドタキャンすること、しかもそれが頻発することでした。
候補者と企業の選考面接スケジュールを設定し、前日どころか当日朝まで確認が取れている。にもかかわらず面接開始時間になっても会場に現れない、電話に出ないなど連絡がつかない。なんの音沙汰もなく音信不通になります。
スマホもそれほど普及しておらず、求人情報自体が量・質共に今とは比較にならないくらい乏しいものでした。今のように、転職市場が情報洪水だったわけではなく、もう少し牧歌的なものでした。
それでも、いやそれだからか面接に来ないんですよ。
面接、待てど現れず。
それこそドタキャンが頻繁に発生していたんですよ。
2010年代前半が特にすごかったです。
この手の話題、すぐに世代論的に原因が語られ「今時の若者は...」とか「これだからZ世代は」とか言われがちですが、絶対にそんな安易なことではありません。
ベトナムの中途採用現場における面接ドタキャンはおそらく20年以上前から連綿と続いていると思われます。
では、なぜこういうことがかつてより、そして今になっても起こるんだろう?日本国内と何が違うんだろう?と考えました(日本国内でもドタキャンは時々起こります)。
おぼろげながらですが、「約束」というキーワードを思いつきました。
日本で面接をドタキャンする人が、ベトナムと比べてなぜ少ないのか。
そうした事態が起こりにくのか。
企業への応募や採用面接は、まだ雇用契約でもなんでもありません。当然、給料をもらっているわけでもない。面接官に会ったことすらない。それでも一度「行きます」と言えば、行けなくなった時には連絡くらいしなければ、と思う。
誰に対する、何に対する責任・義務感なんでしょうね。
日本では「社会人として」とか「社会に出る」なんて言い方をよくしますね。
「社会人としてドタキャンはダメでしょう」と言えば、だいたい意味が通じる。
でもよく考えてみれば、「社会に出る」という言葉自体、少し変です。
大学生も高校生も、それ以前から社会の中で生きています。
家族も学校も地域も社会でしょう。それなのに日本では、学校を卒業して就職すると「社会に出る」と言う。
「社会」って誰なんですかね?
会社の上司や同僚とかでなく、もっと漠然とした、自分の知らない他人を含めた世界でしょうね。
通勤電車内やお店で見かける知らない人や、仕事の取引先の人。採用面接に行けば、それまで一度も会ったことのない人が自分を待っている。
「社会に出る」とは、家族や友人といった既に関係のある人たちだけではなく、こういう「自分の知らない他人」と関係を持つ世界に入る事を意味するのでしょう。
日本では「社会人としてどうなのそれ?」みたいな言い方が未だに良くされますね。
これ、具体的に相手が誰か?というのは問われないんですよね。
一度も会ったことのない面接官であっても、「10時に行きます」と言ってしまえば、その人との間に”何か”ができる。
この”何か”が気になります。
ベトナムの社会にいると、みなさんが家族・親族に対する責任感や義務感を強く持っていることを感じさせられます。一方、一般社会ではどうかというと、例えば既に会社を辞めた人がその辞めた会社の飲み会にしれっと参加してきたりするんです(ベトナムでこういう状況に遭遇した方、少なくないと思います)。会社との契約は終わっても、人との関係は別に終わっていない。
あえて比較すると、興味深いですよね。
入社前・面接前は”会社との約束があるのに来ない”のに、退職後は”会社との雇用関係・契約がなくなったのに来る”。
矛盾とまではいいませんが、来るんかい!(笑)って思ってしまいますよね。
でも、会社という制度や契約よりも、その人との間に既にできている関係の方が重要なのだとすれば、納得できなくもないです。
では、まだ一度も会ったことのない会社の採用担当者はどうなのか。
求人サイトから応募し、人事部門から連絡が来て、面接日時を決める。この時点で「誰かとの約束をした」という感覚が、どの程度あるのでしょうか。
会社という法人と約束したのか。人事担当と約束したのか。面接官と約束したのか。
相手の顔すら浮かばない。
「約束を守る責任がない」というより、その責任が一体どこに向かっているのかが曖昧なまま明確化・意識化・習慣化されていないのです。
少し話が飛びますが、「約束手形」というものがあります。
ベトナムにも「約束手形」を意味する、Hối phiếu nhận nợ/Promissory noteに相当する法制度はあり、歴史的にはフランス統治期に手形制度が入って来ています。法的・金融的な話ではなく、この単語の語彙・語感の強さの話として思いついたんですが、「将来これを履行する」という約束は、当然ベトナムにも存在します。
ただ、制度として存在することと、それが一般の商習慣や生活の中に入り込むことは同じではありません。ましてや雇用契約を結ぶ前の知らない会社との面接にまで道徳的な拘束として及ぶかどうかは、また別でしょう。
日本語では「約束を破る」と言いますね。
「破る」というくらいなので、約束した時点で「何か」ができてしまっているんでしょう。
面接もそうで、「来週火曜日10時に行きます」と言った時点で、来週火曜日の自分を少し拘束している。
もう少し考えると、約束というのは不思議な語感と意味を持つものです。
今日の自分が、まだ来ていない来週火曜日の自分を拘束する。そして同時に、相手にも何かを渡してしまう。
相手はその時間を空け、面接官なら履歴書を読んだり、会議室を予約するなどの準備をする。他の候補者との面接時間をずらしているかもしれない。
要は「10時に行きます」と言った瞬間から、その10時は自分だけのものではなくなる。
約束手形ほど大げさなものではありませんが、少し似ています。未来のある時点で何かを履行することを、現在の自分が引き受ける。
だから約束をした後で「気が変わった」というのは、約束する前の「気が変わった」とは意味が違う。
もちろん面接を辞退すること自体の善悪は問いません。より良い会社が見つかった、条件が合わない、行く気がなくなった。本人の自由意志ですね。
ただし、その自由と、既に他人との間に作った約束をどう処理するかは別の話です。
ここで「責任」が出てくるのでしょう。
「責任」というと、会社への忠誠心や義務のようですが、実はもっと小さな具体性を伴うものです。自分が何かを言ったことで、他人がその言葉を前提に動き始める。その時点で、自分の行動はもう完全に自分だけのものではなくなる。
「やっぱり行かない」という選択そのものは自由ですが、その選択によって予定を変えなければならない人、待っている人がいる。自分の意思変更によって生じたものを、その人だけに引き受けさせない。
ベトナムでのドタキャンを見ていると、この拘束の強さは「何を約束したか」だけではなく、「誰と約束したか」にかなり左右されるのではないか、と思います。
責任感が強い、弱い、という単純な話でもないのでしょう。
まして「社会に対する責任」と言ったところで、その社会には顔も名前もない。
それでも日本では「社会人として」という言葉が、なぜかそれなりの拘束力を持っています。
日本でいう「社会人」というのは、この最後の「まだ知らない人」「顔の見えない人」に対してまで、ある程度の責任を引き受ける人、という意味も含んでいるのでしょう。
それが日本社会の優れたところだと殊更言いたいわけでもありません。
日本では「世間に迷惑をかける」「社会人としてどうなのか」という言葉が必要以上に人を抑圧することもあります。誰に迷惑をかけているのかよく分からないのに、「社会人なんだから」というだけで個人の行動を縛ることもある。
ベトナムで採用の仕事をしていると、むしろ日本人である自分が当たり前だと思っていた「社会人」という言葉の奇妙さにも気づきます。
社会人とは一体誰なのか。いつから社会人になるのか。そして、その「社会」に対して一体何の責任を負っているのか。
ここで、バカバカしいことを考えました。
面接を設定したら、候補者の家族に電話する。
「おたくの息子さん/娘さん、面接を無断でキャンセルしないようにしてくださいね」
もちろん、そんなことはできません。50歳の候補者なら80歳のお母さんに電話するのか、という話になります。
これ、案外考える材料にはなりますよね。
採用担当者から「明日の面接を無断欠席しないでください」と言われるのと、家族から「明日面接なんでしょう、ちゃんと行きなさいよ」と言われるのでは、後者の方が効く人は結構いるでしょう。
言っている内容はほとんど同じなのに。違うのは、その言葉を発している人との関係です。
だとすると、やはり約束は言葉だけでは成立しませんよね。
「明日10時に行きます」という言葉と、その言葉を誰に向かって言ったのか。その人と自分との間にどんな関係があるのか。その両方によって、約束の重さが決まっている。
そう考えると、「無断で面接をキャンセルしないでください」という企業側の注意も、かなり頼りない。
そもそも誰に言っているのでしょうか?
ドタキャンしない人には言わなくてもいいし、無断ドタキャンする人に「ドタキャンしないと約束してください」と言って、その約束だけは守ってもらおうというのも変な話です。
約束を守らない人に、約束を守るという約束をさせる。
なにそれ?
だったら、面接までに少しでも「誰かとの約束」にしておいた方がいい。
「ABC社の面接は20日10時です」だけではなく、「ABC社の田中さんがCVを読んで、この経験について聞きたいと言っています」と伝える。
それだけでも、単なるカレンダー上の予定から、「田中さんが待っている」に少し変わります。
最近は採用もずいぶん管理化・自動化されました。応募すると自動返信が来て、日程調整もシステム上で、前日にはシステムから自動リマインドが届く。便利です。
逆説。。。
企業は候補者に約束を守ってもらうために、確認メールを送り、リマインドを送り、システム上に注意事項を表示する。
一方では、その採用プロセスから人間をどんどん消している。
相手をどんどん見えなくしておいて、「約束は守ってください」というのも妙な話です。
弊社のような人材紹介会社も同じでしょう。
以前は求人情報を持っていること自体に価値がありました。企業と候補者の間に大きな情報の非対称性があったからです。今は求人情報も企業情報もいくらでもあります。生成AIに会社名を入れれば、相当なところまで調べてくれます。
一方で、情報が増えたから人間の意思決定能力まで上がったかというと、そんなことはないでしょう。情報が増えすぎて、かえって決めにくくなっている面もあります。
AI時代のこれから、人材紹介会社が埋めるのは、情報そのものの非対称性より、情報をどう解釈するか、どう意思決定するか、そちらの非対称性であったり負荷軽減なのでしょう。
あとは、候補者と企業の間に人を置くこと。
企業とはまだ何の関係もなくても、紹介会社の担当者とは何度か話をしている。「この会社には行かない」と思ったとしても、「紹介してくれた人には一言言っておこう」とは思う。
これ、昔から今も人材紹介会社がやってることなんですよね。
求人を紹介していたと同時に、まだ知らない人同士の間に入っていた。
これは単なる情報仲介ではなく、まだ関係のない二者の間に、薄いながらも人間関係を作ることですね。触媒とでもいいましょうか。
ドタキャンというと候補者のマナーの話になりがちですが、15年以上同じものを見ていると、それだけでは説明できない気がしています。
「約束を守るか」より前に、「誰(何)との約束なのか」がある。
そして「責任感があるか」より前に、その責任を感じる相手が、自分の中で既に存在しているのかどうかがある。
日本で当たり前のように使ってきた「社会人」という言葉も、ベトナムで長く仕事をしてみると、以前とは少し違って見えてきます。
家族でも友人でもない。まだ会ったこともない。これから二度と会わないかもしれない。
それでも、自分の言葉を前提に動いている人がどこかにいる。
日本人が「社会に出る」と言う時の「社会」とは、案外そういう人たちのことなのかもしれません。
最後に。日本人なら誰でも知る「責任を取る」という言い方。 あれなんですかね?変ですよね。
本来、責任は取るものではありませんよね。
取っただけでは、意味も価値も薄いです。
責任は引き受け、背負い行動するものですよね。
※よくある質問
※ベトナムでは面接のドタキャンは多いのでしょうか?
ベトナムの採用現場では、面接直前のキャンセルや無断欠席に遭遇することがあります。ただし、すべてのベトナム人求職者に当てはまるものではありません。本記事では、個人のマナーだけでは説明できない背景について考察しています。
※ベトナム人求職者が面接をドタキャンする理由は何ですか?
他社への入社決定、条件の再検討、家族からの助言など理由はさまざまです。本記事ではさらに、「会社との約束」をどの程度社会的な責任として捉えるのかという、日本との違いにも注目しています。
※ベトナム人採用で面接のドタキャンを減らすにはどうすればよいですか?
面接日時を決めるだけでなく、選考前後のコミュニケーション、求人情報の伝え方、候補者の意思決定状況の確認など、採用プロセス全体を見る必要があります。

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